安本は、計量的方法によって言語間の距離を測ろうとしているが、これは例えていえば、タヌキとキツネ、パンダとコアラ、人間とチンパンジーを身体の部位の計測によってのみ発生の系統性を知ろうというのと同じくらい危うい議論である。
本HPでは、内的再構の必要性を冒頭に述べた。安本の日本語成立論は内的再構のない議論の危うさの見本のような議論といってよい。
中国語の音的起源のところで述べたように中国語と日本語の頭子音の関係は次のようである。
中国語 | 日本語 |
---|---|
n | |
k | 子音の意味に類似性がある |
t | |
ts | |
s | |
m | |
p | 子音の意味に類似性がない |
h | |
ng | 子音自体が日本語にない |
l | |
w | 子音自体古中国語にない |
y |
N音は中国語でも日本語でも「ネットリ、ネバネバ、柔らかく粘着性のあるもの」を表すが、
[中国語] 柔(ニュウ)・軟(ナン)―N音
[日本語] やわらかい ―Y音
で、この対応では関係が見えない。中国語の「柔・軟」に対しては日本語では、「滑らか、伸びる」のN音が対応するが、多くの場合にその関係が捉えられない。たまたま、基礎100語(または200語)の中に、
[中国語] 粘(ネン)
[日本語] ネバル
が比較語彙としてあった場合には、これは共通性が認められる語ということになる(しかしこの場合でも日本語のネバルはネルから派生した語と考えられるので、じつは本源的な比較になっていない)。
安本の計量的なデータは、本源的な比較データでなくても、100語も比較すればある程度、本源的なものに当たっているものもあるだろうという程度の比較である。
基礎100語200語のような比較が有効なのは、石とか水とか火とかいう語を共有していた民族が分岐し、それらの語が音韻変化し、民族ごとに一見違う語をもっているように見えるというような場合に、元の関係性をさぐる上で有効なモデルと考えるべきであろう。基礎語彙による比較が意味を持つのは、双方の語が確かに同じものを指している必要がある。
「粘―ネバル」の関係はn音を中国語・日本語ともに粘着性を表すのに用いるということであって、これが起源的に同じということとは別の議論である。言語音と意味の類似性という点では、中国語と日本語はよく似ているが、安本はそれはほとんど捉えていない。僅かに関連性を示すとするデータを得てはいるが、それはむしろ言語音の民族を超えた類似性の反映とみるべきもので、直ちに系統論に結びつけるのは適当ではない。議論が短絡的なのである。しかしもちろん、起源的に繋がっている可能性は否定はできないし、実際、古い時代の何らかの関連性は想定してよいのではないかと思われる。
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