基礎講座

音義説と江戸の国語学

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平田篤胤─音義言霊派

国学者の中にあって、平田篤胤は、やや特異な人物である。国学の四大人として、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤をあげることがあるが、それは他ならぬ平田門派の人たちによって言い出されたことであって、篤胤は学者というよりは、むしろイデオローグであった。

当人は、宣長の門人を名のったが、実際には宣長没後二年を経た時点でも、宣長の著作はむろん名前する知らなかったらしい。宣長に対面した夢を見たと称して、これを絵に描かせ、宣長の子の春庭に送って讃を求めている。「本人の口より申され候ことゆえ、嘘やら誠やら相わかり申されず」と宣長の弟子からは山師扱いされている。

篤胤の著作に「仙境異聞」があり、これは仙境に往来するという寅吉という十五歳の少年から仙境の事情を細かく聞き出してまとめたとする著作である。篤胤は、死後の霊の行き方、幽界に多大な関心を寄せている。オカルト的な傾向が強い人物である。
その思想は、日本本源論あるいは皇国尊厳論といわれる。インドの帝釈天は日本の皇産霊神である。易を作ったという伏義はじつは日本の大国主神である。中国の医術は日本の大己貴神と少産名神が創始したものなどとする。
篤胤の著作は、宣長の書、鈴木朖、服部中庸などの書、漢訳のキリスト教書等々を種本にして、それを脚色し、ある部分はまる写しして作ったものが多い。したがって著作はかなり多量である。出版に要した費用五千両、そのうち支払ったのが二千両、残金は娘婿の鉄胤が無利息三十年年賦で支払う約束をしている。

篤胤は、「怪妄浮誕(とりとめのないでたらめ)」をなすものとして、江戸幕府によって著作を禁止され、江戸から追放される。しかし、その後も関東、中部、奥羽などの神社、農村、宿駅の有力者に支持され影響力を保った。篤胤の書は、講談口調で勢いがよく、主張が断定的で明快なため、地方で学問を求める人に受け入れられたのかもしれない。

明治維新によって成立した新政府は、天皇崇拝を高めるため、神道を国家統合の精神として掲げた。このとき新政府に入った人の中に平田門派の人々がおり、復古神道といわれる国学の思想が新政府の施策に大きな影響を与えることになった。

「古史本辞経」(一八三九年成、一八五〇年刊)は、篤胤の最後の著作である。篤胤は五十音図が悉曇の法をもとにして作られたという在来の通説を否定し、五十音図の理は惟神の道理として伝わったものであり、インドのものも我が天つ神が授けたものだとする。そして、五十音図の原理と神代伝説の天地創造の原理とが照応するとしている。その上で、五十音図各行の意義を次のように説く。

ア 大  カ 旋  サ 俊  タ 聨  ナ 滑  ハ 奮  マ 聚  ヤ 動  ラ 潤  ワ 麗

五十音図が、世界を具現するものという考え方は、篤胤よりも早く、林圀雄「皇国之言霊」(一八二九)においても見られる。「あかさたな」のア段を天の象、「あいうえお」の母音を地の象、「おこそとの」のオ段を黄泉の象、この中間に世界があるとしている。
このように、江戸末期の神道家の間に行われた音義説は、国語に霊力が宿るという言霊説と一体化し、きわめて観念的神秘的な性格を帯びるようになった。

明治以降の音義説

篤胤や林圀雄の説は、五十音の各行に音義を設定する一行一義説であった。しかし、一行一義で多様な語を説明することは難しい。そこで、一音一義を唱える学者が現れた。宣長の門派であった富樫広蔭およびその弟子の堀秀成などの名をあげることができる。堀秀成は、明治になってからも学習院の教授を努め、音義説に基づく多くの著作を出し影響を及ぼした。ここでは、秀成の説をとりあげることにする。

堀秀成「音義本末考」によると、例えば「ア」について
 ワカレノボル象 (兄、上、姉などのア)
 アヒムカフ象  (我、間、合などのア)
 ヒラケワカル象 (明、班、毀などのア)
 カロキ象    (粟、淡、沫などのア)
 オホヒムス象  (暑などのア)
の本義五義と他に末義五義、計十義をあげる。

この秀成の方法は、観念的に音に義を設定した音義言霊派の説とは異なり、むしろ帰納的な方法によっていると見られる。つまり、いろいろな語を観察して、各音に意義を見出し、その意義を分類して作ったものと考えられる。そして、「ア」にワカレノボル象という意味が生じるのは、アという音がウよりも口を開く音だからであるというふうに、その音の発声の特徴に意義の根拠を求めた説明を行っている。

音義説のように一行一義もしくは一音ごとに意味を見いだそうとする説は、明治以降では、林甕臣「日本語源の研究」(明治三十八年)、井口丑二「日本語源」(大正十五年)、大島正健「国語の語根とその分類」(昭和六年)、賀茂百樹「日本語源」(昭和十四年)と続く。これらの説は、西洋の言語学を受け入れた言語学者、国語学者によって早くから批判されてきた。音義説が神道系の学者のよって唱えられたこともあり、戦後はほとんど見られなくなった。

以上見た通り、日本語の研究は、五十音図を基にした相通説によって進められてきた。江戸末期には、その研究が進み、日本語の語形変化が用言の活用法則として把握されるようになった。他方では、それに観念的な意義付けを与えた音義説が現れた。これは、「国語に整然たる法則が存在することが発見せられ、言霊の力はかかる言語によって始めて生ずるものであるというふうに考えられるに至った。」(時枝誠記「国語学史」)とみることもできよう。

今日、相通説は、ほとんど省みられない。相通と見たもののあるものは活用変化のことだったが、しかしすべてが活用変化に集約されるわけではない。今日の文法では、用言の活用変化を整理して示しているけれども、何故に用言は活用するのかという肝心な点は、ほとんど明らかにしていない。日本語の上に現れる語形変化の正体を見極めることは、今日の国語学の課題でもある。

(この項終わり)

音義説のまとめPDF

 

日本語の起源