国語研究が著しい進展を見せるのは、江戸時代になってからである。政治が安定し、商品経済が発達し、文化芸術が隆盛となる。印刷技術に革新が起こり、木版による製本印刷によって、仏典、儒書、和文古典の主要なものが出版され、それらが容易に手にはいるようになった。
江戸初期の語源の書として、まずあげられるのは、松永貞徳「和句解」(一六六二)である。いろは順に言葉を解説している。たとえば、
盗 ねすむなり。人のねむりたる頃を窺うよ。ネとヌと五音相通。
床 ゆか。腰掛けて休息するものなり。行かぬと云ふ事なり。
のようであり、語呂合わせ的な解釈が多い。
元禄期(一六八八~一七〇四)には、日本語研究の分野でも多くの優れた研究が輩出する。貝原益軒は、福岡藩に仕える儒者であったが、博識であり、平明な文体で多くの書を著した。「大和本草」「養生訓」などのほか、名所旧跡を訪ねる紀行文なども著し、当時の庶民の旅行ブームにのってよく売れたらしい。
「農業全書」という元禄年間に出版され、江戸時代を通じて何度も版を重ね、明治以降まで影響を及ぼした農書がある。宮崎安貞著だが、益軒の協力や影響によるところが大きい。水戸光圀も、この書を農民に一日もなくてはならぬ書として絶賛し、佐々助三郎に推薦文を書かせている。
益軒といえば、戦前修身の教科書に取り入れられた「女大学」の著者と思う人もいるだろう。「女大学」は、女性は陰性で愚かであり、夫および舅姑へ服従すべしと説く書だが、これは偽書らしい。ただし、益軒が、「家訓」など十訓といわれる教訓書を著し、節制、倹約、辛抱などを説いたのは事実である。
さて、益軒の手になる「日本釈名」は、約千百語をあげて語源を説いた書である。まず初めに、「和語をとく事謎をとくが如し。その法訣をしるべし。是をとくに凡八の要訣あり」として「自語・転語・略語・借語・義語・反語・子語・音語」の八っの要訣を立てた。それぞれ次のように説明する。
自語 上古の時自然に言い出された語。「天地」「男女」「父母」の類。
転語 五音相通によって名づけた語。「上」を転じて「君」、「高」を転じて「竹」、
「黒し」を転じて 「からす」、「盗み」を転じて「ねずみ」とする類。
略語 言葉を略すもの。「文出」を「筆」とし、「かへる手」を「かへで」とする類。
借語 他の名と言葉を借り、そのまま用いて名づけたもの。
「天」より「雨」、「上」より「神、髪」、「炭」より「墨」の類。
義語 義理をもって名づけたもの。「気生」を「勢い」、「明時」を「暁」とする類。
反語 かな反し。「はたおり」を「服部」、「平」を「葉」とする類。
子語 母字より生ずる詞。「日」より「ひる、ひかげ、ひかり」を生じる類。
音語 外来語。菊、杏子、尼の類。
益軒は、「解き難き言をば、疑わしきをかきて解くべからず、みだりにとけば誤るもの也」としているが、実際の解釈では、「鼠」を「盗」よりの転語とするなど「和句解」に基づいたと見られるものもあり、肯首しがたい説が多く見られる。しかし、この時期の論としては比較的よくまとめられている。
徳川光圀(一六二三~一七〇〇)は、日本の歴史や古典に深い理解と興味を示した人物として知られている。歴史書「大日本史」の編纂を手がける一方、「万葉集」にも関心を示し、伝本を集めては研究を行っていた。
契沖は、万葉集の注釈書として、「万葉代匠記」(一六八八)を著し、光圀に奉った。それ以前の多くの不明点を明らかにし、誤りを正しており、以後の研究に大きな影響をあたえた。
契沖は、語義解釈にあたって、万葉集の中で使われている多くの用例や古い時代の用例を調べ、文献的実証的な方法を用いた。この点では、悉曇の音韻学を汎用的に適用した仙覚などに比べ、今日の学問的方法に近い。しかし、契沖も悉曇の学徒であり、音通説によるところも多い。
語源に関しても、契沖は随所で見解を述べている。各所からの断片的な引用となるが、
命 いのち 息の力の義。
鯉 こひ 味のよくて人の恋ひしたふ故の名か。
厠 かはや かけるかけるゆく所なればいふ。河屋といふにや。
などとしており、あまり評価できるものではない。(こういうものばかりではないが)
契沖の後世に与えた影響では、万葉集研究とともに、「仮名遣論」が大きい。いわゆる歴史的仮名遣いの提唱である。
平安時代末になると、ハ行音が語頭にある場合をのぞいて、ワ行音に変わる。川が「カハ」から「カワ」、家が「イヘ」から「イヱ」というように発音が変化した。さらに、鎌倉時代に
なると、「wa wi u we wo」が「wa」のほかは、w が落ちて、「wa i u e o」となった。
奈良 → 平安 → 鎌倉
kaha kawa kawa
ihe iwe ie
のように変わったわけである。
当時は、このような発音の歴史的変化は、むろん認識されていなかった。契沖は、記紀、万葉の文献を見ると、家を「いへ」のように表記しているから、古文献の通
り「いへ」と書くのが正しいと主張した。古いものが正しいという復古論である。当然、強い
反対が現れた。仮名遣いは、人間の考えた人工のものだから、旧記に囚われる必要はないという論者との間で、現代にまさるとも劣らない激しい国語論争が繰り広げられた。
契沖の仮名遣い論は、次第に国学者の間に受け入れられていく。明治に入って、これが国定教科書に採用され、いわゆる「歴史的仮名遣い」として日本語表記に大きな役割を演じた。
契沖を経済的にも精神的にも支えた光圀が、元禄十三年(一七〇〇)に没すると、翌年、契沖も後を追うようになくなっている。
元禄に続く時代、将軍家宣、家継に仕えて、正徳の治を押し進めた新井白石は、「東雅」という語源の書をのこしている。白石は、吉宗によって退けられた後、処遇に立腹しつつもエネルギーのはけ口を著作に求めた。その中で生まれたのが「東雅」である。語釈にあたっては、多くの古書を引用し、歴史的実証を行い、幾通りもの考え方を示している。また、言語の歴史的地理的変化に対する洞察も見られるなど白石の見識の高さがうかがわれる。
元禄期以降の国語研究は、いわゆる「国学者」によって担われた。国学とは、儒教、仏教の盛行に抗し、日本の古典を研究することによって、日本固有の道「古道」を明らかにしようとした学問である。
まず、賀茂真淵の名をあげることができる。真淵は歌人としても活躍する一方、万葉集をはじめとする日本の古典の研究に業績を残した。国語関係の書に「語意」(一七六九)がある。この書は、発音、用語の活用、言語の変遷等について説くが、特に注目されるのは、五十音図との関連のもとに動詞の活用を示していることである。五十音図の各段を次のように名付けている。
ア段 イ段 ウ段 エ段 オ段
初 体 用 令 助
はじめのことば うごかぬことば うごくことば おふすることば たすくることば
ゆかん ゆき ゆく ゆけ ゆこ
たとえば、ア段は「ゆかん」のように、「その事を始めておこす言葉」であり、イ段は「ゆき」のように「動かぬ言葉」をつくるとしている。
宝暦十三年(一七六三)、本居宣長は賀茂真淵に面会し、師弟の縁を結んだ。本居宣長は、伊勢国松坂の生まれ。京都に遊学し、医学を学ぶかたわら、儒学や契沖の学問に親しんだ。帰郷して医師を開業するとともに、古典研究に励み、門弟をとって古典を講じた。戦前の国語教
科書は、真淵と宣長の出会いを、「松坂の一夜」として描いている。
二人はほの暗い行燈のもとで対坐した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろ立派な著書も あって、天下に聞こえた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和な人となりのうちに、どこと なく才気のひらめいている篤学の壮年。年こそちがへ、二人は同じ学問の道をたどつてゐる のである。だんだん話してゐるうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことをさとつて、非 常にたのもしく思つた。… 夏の夜は更けやすい。家々の戸はもう皆閉ざされている。老学 者の言に深く感激した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町すぢを
我が家へ向つた。…… (尋常小学国語読本 巻十一 「松坂の一夜」より)
宣長「古事記伝」全四十四巻は三十五年の心血を注いで、六十九歳の時完成したものである。古事記に書かれている漢字、漢文の読み方を選定し、そのように読むべきことの理由、解釈の根拠を述べ、「古事記」の読み方を決定していった。
宣長は、言語研究でもすぐれた業績を残した。活用研究についていえば、宣長は、「御国詞活用抄」を著し、活用の型によって二十七の分類を示した。この研究は、子の春庭、門人の鈴木朖、東条義門らの手によって発展させられる。
義門は、六種の段を立て、それぞれ将然言、連用言、裁断言、連体言、已然言、希求言と命名した。これによってほぼ、今日のような形の活用表ができあがったのである。
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