日本語の論点

数詞(ヒ・フ・ミ)の起源

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3.ヒ・フ・ミは何を数えたか

「ヒ・フ・ミ」は指を数えている

数を数えるのに、もっとも普通に使うのは指であり、多くの民族の数詞が指に関係しているし、日本語でも「指折り数える」という表現がある。日本語の数の数え方も指と関係がある。

1  ヒ (親指)    ヒラク(開く)。親指を起こす。
2  フ (人差し指) フル (振る)。振り替わる。
3  ミ (中指)    ミ(まん中)
4  ヨ (薬指)    ヨル(寄る)。端に寄る。
5  イ (小指)    イタル(至る)。

ヒ(1)は、ヒラクとしたが、ヒナ(鄙、辺境)などの語に見られるようにハ(端)と同じ語の可能性がある。 ヒトはヒ(端)を単体を表すのに用いたものであろう。
フ(2)は、フ(振る)である。「振り替え」というように横に移ることがフルである。英語でいえば nextにあたるのが、この「フ」である。このフの用法については、『大和言葉の作り方』のハ行の説明、もしくは『語源でとく古代大和』(p52-55)を参照願いたい。
ミ(3)は、ミカド(御門)、ミヤ(御屋=宮)などのミ(御)と同じ語。これは真中、真上のマと起源的に同じと考えられ、真中の指の意。
ヨ(4)は、寄る。5のところに近付く。
イ(5)は、イタル(至る)としたが、このイは、イヅ(出)・イル(入)のように、区切りとなる地点を表す。物体を表すイと同じ。

6  ム (小指)   ムスブ(結ぶ)。次の手につなぐ。
7  ナ (薬指)   ナラベル(並べる)。小指の横に薬指を並べる。
8  ヤ (中指)   ヤ(高い、大きい)。
9  ココ(人差し指) ココ(此処)。ココは近い場所。終点に近い処。
10  ト (親指)   トズ(閉じる)。

ム(6)は結ぶ。1から5まで握っていた手の指を立てながら数え、今度は立てた小指を折る(結び)。あるいは、左手で数えた数に右手を結合する。
ナ(7)は、小指と薬指が並ぶことであろう。これが親指と人差し指では「並ぶ」とはいえないから、小指から閉じると考えられる。 たんに続ける意でもよい。
8(ヤ)は、山のヤであり、「高い」「多い」「大きい」の意味を持つ。「いよいよ・ますます」の意味を持つ副詞のヤとも本来同じであろう。(下記大野晋氏の論を参照せよ)中指にあたり、最も大きい指であることを表す。
9(ココ) 来る。4が終点に近付く意だったのと同じく10の地点に近付く。
10(ト) 閉ず。すべての指を閉じる。

朝鮮語との関係をいえば、朝鮮語の「5 tasat」は、「閉じる tat」よりできた語で、「10 yal」は「開く yal」よりできた語だそうである。これは、今日の日本人の指を使って数えるときの指の折り方と似ている。古来の日本の指の折り方が、朝鮮文化の影響を受けて、いつのまにか変化したのかもしれない。
なお、ヒトツ、フタツの「ツ」は、「付」であり、番号を付与する、数と結びつけるの意であろう。ヒトツ、フタツの「ト」「タ」は、「処」「処」であり、本来その物のあるところの意と思われる。
日本語の数詞を、近隣言語と比較して類似性を見いだしえなかったのは、むしろ当然といわなければならない。日本語の数詞は、指を数える動作にもとずく純然たる大和言葉である。だから、もし類似性があれば、それは基礎的語彙が相当類似しているということだ。いまのところ、そういう言語はありそうもないわけである。

大野晋氏の聖数論

日本語では、「八百万神」「八雲立つ」「大八洲」「八尋」など「八」という数が同時に多数をあらわすと解されてきた。民族ごとに神秘的とされる数があり、それを聖数というが、日本語では八が聖数であるなどといわれてきた。しかし、「ヤ」は本来「大きい、多い」の意味だったのだ。八番目の数がたまたま背の高い指だったために、八が「ヤ」とよばれたにすぎない。
下記に大野晋氏の聖数論を引用しておくが、八のヤと副詞のヤが同源であろうとみている点については正しい見解とみてよい。

●参考(大野晋氏の聖数論)
ヤ(八)という語は、日本神話の中に極めて多く現れる数詞である。「大八洲(おおやしま)、八頭(やがしら)、八門(やかど)、八尺鏡(やさかのかがみ)、…、八百万神(やほよろづのかみ)」などである。このように神話に多く用いられる数は聖数と呼ばれる。多くの民族は、それぞれの聖数を持っている。

アーリアン民族は三またはその自乗の九を聖数としているし、ヘブライ民族は七を、アイヌ人は六を、ツングース族は大体において五を、アメリカインディアンは四を、聖数としている。ポリネシアには、四と八とを聖数とする種族がある。この聖数は、種々の儀礼や呪術に使われる数であり、その民族にとって神秘的な霊能の感じられる数である。とともに、それが「多数」を意味することが多い。「多数」とは数え切れないということであり、無限に大きいということである。

日本の神話には八(ヤ)が多く使われるが、これは漢字の「八」には関係がない。現代で八が好まれるのは、八という字の形が末広がりであるということと深い関係があるが、古代の日本では、漢字などは一般民衆にとって何の縁もない存在であったのだらか、聖数としてのヤ(八)と、現代の八の愛好とは別である。

ヤyaという音の語に、副詞の「ヤ」がある。たとえば、
大舟を荒海に漕ぎ出で や船たけ(=漕ぎに漕ぐ) (万葉1266)
という歌である。この場合のヤとは、いよいよの意である。
や雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を(古事記歌謡一)

この歌の「や雲立つ」のヤも、やはり副詞のヤで、いよいよの意である。この、いよいよとか、ますますとかは、「すでにある度合で物事が存在し、行われているのに加えて、限りなく多く」の意である。このヤとヤ(八)とは同音である。従って、日本の数詞における聖数八(ヤ)と、限りなく多くの意を持つ副詞ヤとの関係は、世界の諸民族が神話において持つ聖数が、同時に多数、無限を意味するのと、まさしく対応する現象を呈している。ことによると、数詞の八(ヤ)と副詞のヤとは、本来同一の語なのではあるまいか。 (大野晋『日本語をさかのぼる』p115)

(この項終わり)


目次:

1.数詞が系統論の中で議論されてきた
2.数詞についての白鳥庫吉説
3.ヒ・フ・ミは何を数えたか

日本語の起源